銅銭糖と参勤交代

銅銭糖

 

 熊本藩主加藤忠広は父清正の遺志を継いで元和4年(1618)堀川の開削に着手、瀬田鍋倉の瀬に取入口を設けて多くの難所を排除しつつ工事を進めましたが、
寛永9年お取潰しにより中断しました。かわって藩主となった細川忠利が遺業を継ぎ、寛永13年(1636)工事を再開、次代光尚により坪井川まで全長約24q
の「上井手」(菊陽町原水玄蕃橋より下流は「堀川」と云います)が完成。大津・菊陽・合志の原野は、約460haもの広大な穀倉地帯に変容していきました。この
ことは肥後3大御倉の1つ大津御倉が置かれたことが如実に物語っています。
 以来上井手に沿って集落が形成され「塘町筋」と呼ばれ、物資集散の場所として大津手永の会所の所在地として政治経済の中心地となり、また参勤道(豊後街
道)の宿場町として繁栄を続けました。上井手の本流や用水を配る分流には、水流を利用した水車が往時20余輪を数え、精米・製粉・製材等の動力源として地域産業発展の基礎となりましたン後に米粉加工による郷土のお菓子・銅銭糖(どうせんとう)の誕生をみることにもなります。  

 

銅銭糖

 

銅銭糖

 

 

大津町の交通の要所には六角地蔵が建てられており、交通のお守りお地蔵様として祭られています。

 

銅銭糖

 

 

昔は甘い物が高価でしたので身分の高い人しかお菓子は食べれませんでした。
銅銭糖(どうせんとう)は参勤交代の時、身分の高い人のおみやげに買われたみたいです。
銅銭糖(どうせんとう)は、2枚の木の銅銭糖をかたどった木型に餅米の中にあずき餡を入れて形を作ります。
銅銭糖(どうせんとう)という名前の通り、一銭銅貨を五十枚重ねた形は、庶民の憧れを投影しているのです。

 

熊本電算システム

 

白色の銅銭糖(どうせんとう)がお砂糖味で、緑色の銅銭糖(どうせんとう)は、抹茶が入っています。

 

 

銅銭糖

 

当時は熊本・大津町のお土産として売られていました。

 

(当時の参考価格です。)
銘菓 銅銭糖 (どうせんとう) 価格表(税込み)

 

 9本入り   262円 
15本入り   525円
24本入り   840円
30本入り 1,050円
45本入り 1,575円
60本入り 2,100円

 

※ここで紹介しています「浪花屋本舗」さんは、平成20年9月に閉店されています。
 別のお店で「浪花屋本店」さんと言うお店は、今も営業されています。

 

 

 

銅銭糖・お菓子のページのトップ

銅銭糖と参勤交代